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お茶の歴史

 ・日本へのお茶の伝来は、遣唐使が往来をしていた奈良・平安時代にさかのぼります。
その頃のお茶は、非常に貴重で、僧侶や貴族階級など限られた人々しか口にすることができないものでした。
その後、鎌倉時代初期(1191年)、臨済宗の開祖、栄西禅師が宋よりお茶を持ち帰り、お茶の効用・製法を記した、我が国最初の本格的なお茶の書「喫茶養生記」を書き上げました。その書の表題が表す通り、栄西は、からだの保健や衛生のための療生法としてお茶を飲むことを勧めています。
 栄西は、中国より持ち帰ったお茶の種子を九州の佐賀県脊振山にある霊仙寺内石上坊の庭に植えました。
その日本最初の茶園で育った種子が日本各地に広まったと言われています。

栄西禅師
永治元年(1141年)4月20日〜建保3年(1215年)7月5日
お茶をこよなく愛した栄西は、当時では大変な長寿でした。

長崎 そのぎ茶の歴史
 15世紀に釜煎りによる製茶法が西九州に伝えられると、そのぎの各地域で盛んにお茶の生産がおこなわれるようになりました。
 その後の元禄年間には大村藩の奨励で茶園の集団化が進み、今日のそのぎ茶の基礎となりました。

植えてあるお茶の樹の樹種とその表記
(東そのぎ町:中島公園)
お茶畑の造成。開墾の記念碑と各種のお茶の樹を植えた公園
(東そのぎ町:中島公園)
 江戸時代、日本唯一の海外との窓口であった長崎では、1690年に長崎に来日したドイツ人医師ケンペルを始めスウェーデン人植物学者ツンベルク、ドイツ人医師シーボルト(いわゆる出島三学者)は、江戸への参府の折に宿泊した彼杵にて、そのみごとなお茶の栽培技術に驚嘆し、コーロッパへ広く紹介したと言われています。
そのぎ茶と長崎商人、大浦慶
 日本茶輸出貿易のさきがけとなり、そのお茶貿易で莫大な財をなした長崎の女商人、大浦慶は安政3年、オランダ人テキストルから6tものお茶の注文を受け、長崎だけでは足りず九州一円からお茶を集めアメリカへ輸出しました。 慶は、当時活躍してた坂本竜馬、大隈重信、陸奥宗光らとも親交が深く、財政的に彼らを援助していたと言われています。

大浦慶と坂本竜馬の記念展示
大浦 慶
文政11年(1828年)6月19日〜明治17年(1884年)4月13日


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